台湾でプリペイドSIM - 遠傳電信 FarEasTone編

今回台湾で4日ほど滞在する際に、我がHTC Desire(UK版SIMフリー)でパケット通信すべくプリペイドSIMを購入しました。

手続きについてはこちらのサイトを参考にさせて頂きました。

http://blog.nabe.jp/archives/000211.html

台北駅新光三越裏の店舗カウンターでプリペイドSIMを購入したいと伝えると、1日100NTD 3日間250NTD 5日間350NTDのプランがあるとのこと。手続きにはパスポートのほかにもう一つ日本での身分証明書が要求されましたので私の場合は運転免許証を使いました。

登録手続きから開通まで1時間かかるという説明を受けましたが実際には手続きをしていろいろ説明を聞いているうちに開通したようですぐに利用可能でした。

作業の手順としてはSIMを携帯に刺して、ネットワークの選択でFarEasToneを選択、その後アクセスポイントの設定でAPNを internet になっていたものを f3prepaid に変更。あとは携帯を再起動すると完了です。携帯上でアクティベーションなどの作業はありませんでした。

購入したNT$350は5日間の無制限3Gデータ通信用で、音声通話用のクレジットは含まれていませんでした。ただし電話番号はありますからSMSの受信、音声通話の着信は可能です。

ちなみに、私は中国語はカタコトですが、店頭では英語が通じるスタッフが一人いたためお陰でほぼ英語だけで滞り無くコミュニケーション可能でした。

iPadの良さはその絶妙なサイズにあると思う

 

iPhone + マリオのパワーアップきのこ = iPad

という式を茶化しているこの作品は面白いと思いました。iPadには大きさ以外に iPhone と比べて特筆すべき点はなにもないと馬鹿にしたかったのでしょう。しかしながら、実はこの「大きさ」の違いこそが Apple の周到な計画と深淵な狙いがあると思われる最大の点でもあります。

iPhone は携帯電話の操作性に革命をもたらしました。iPhoneが実現したタッチのユーザー体験は、コンピューターはキーボードを、携帯電話はさらに小さくなったキーボードをぱちぱちとたたいて文字や、数字、方向を入力するものという当然の概念を打ち砕いて成功した初めての例だったのではないでしょうか。タッチパネルの技術自体は新しいものではなく、感圧式のもの、静電式のもの、タブレットPCやPDAでさまざまに使われていたのは周知のとおりです。しかし、いずれも、入力デバイスの主役はどうしても機械式のキーボードのほうで、タッチデバイスは操作の一部を簡略化するための「補助的」な入力装置にしかなれなかったわけです。その証拠に、タブレットPCには、取り外せたり、折りたためたりできたとしても、常にキーボードがついていました。PDAも日本のいわゆる「ガラパゴス携帯」も、タッチ機能もあるけど、やはり、数字版は機械式のボタンだったり、しっかりQWERTYキーボードがついていたりしてその機械の感触を脱ぎ捨てることができないでいました。機械式のキーボードが良いからなのではなく、タッチデバイス上にいまだかつて人が直観的と感じられる十分な体験が実現できないでいたからです。そういう意味で、iPhoneやiPodがなしえた成功はコンピューターマウスの発明にも匹敵するかもしれない大きな飛躍であったといえるでしょう。

選択する、上下左右の方向を入力する、ページをめくるなどの操作を、キーボードやカーソルキーではなく、人の直観、人が実生活の上で当然のように行っている、「指」で方向を示し、紙をめくりなどの直観的操作でタッチパネルの上に実現できたということです。タッチパネルの技術なんか昔からあったと、日本のモノづくり職人は負け惜しみを言うかもしれませんが、Appleの偉大なところは、そこを、平均的な「人」に受け入れられる程度のユーザー体験としてまとめ上げたところにあるんだろうと理解しています。

さて、大きさだけが違う iPhone と言われた iPadですが、まさに、その大きさが、雑誌やカタログの1ページ、あるいは文庫本の見開きサイズに近い絶妙さがキーポイントだと思います。文庫本にしても、1ページのサイズではなく、見開いた2ページ分のサイズが確保できるという点。なぜなら、iPadのスクリーン上で、開いた本や、Webページは、もはや携帯電話でやっていたような、見たいところを大きく引き伸ばさないと文字さえ読めないという状況を克服しているからです。見たいところを狭いスクリーン上にスクロールしてもってくる、そして拡大して「引き延ばす」という、簡単そうで、大変な手間のかかる操作を省略したその1歩が偉大なんだといえます。

かつて、Amazonが「1クリック特許」をとって評判になったことがありますが、コンピュータの使い手はいつも、1ステップでも楽をしたい、楽なほうがいいと意識的、無意識的にも思っているものですし、現にそういう方向に進化してきました。iPadのサイズは、そういう意味で、コンテンツを開いて、そのまま「読書」に入ることのできる広さを持っています。そこが成功の鍵であろうと確信しています。

 

さて一方で、かの国のiPadコピー商品や、iPadに続けとばかり各種ハードメーカー、携帯電話メーカーがリリースする類似の製品に目を向けてみると、そこに、大きな問題があることに気が付きます。

iPadがほぼ10インチ(9.7インチ)であるところ、後に続くiPadを「マネ」した製品のスクリーンサイズはいずれも、4インチから大きくても7インチ程度。いったいどういうことでしょうか? 7インチはもちろん、iPhoneより大きいですが、文庫本なら見開きじゃなくて、片開き1ページ程度にしかなりません。果たして、iPadの10インチのスクリーンサイズの深淵な意味をこれらのメーカーの方々は理解されていないのでしょうか?

言い訳が聞こえてこないわけではありません、スクリーンが大きければバッテリの消費も大きいし、ハード自体のコストも上がる。しかし、iPadがなぜ7インチじゃなくて、9.7インチなのかにはやはり大きな意味があって、そこに、人々に受け入れられるか入れられないかの境界さえもあるような気がします。なぜ、文庫本、新書本、単行本などがあのサイズなのか、なぜカラー写真いっぱいの雑誌があのサイズで出版されているのかには、深い深い歴史的な意味があるはずです。雑誌を読む人は、美しい写真を、できる限り視野いっぱいに楽しみたいはずです。文庫本が、iPhoneのサイズで、1ページずつしか開いて読むことができなかったら、それだけでストレスを感じてしまうはずです。

 

タッチの技術はまだ黎明期であるといえるでしょう。今後ますますかっこいいデバイスが登場してくるのが待ち遠しく感じられます。