楽天が英語の社内公用語化を宣言して話題を集めています。国際化への興味深い試みである一方、日本人の英語アレルギーも手伝ってか賛否両論渦巻いているようです。私自身、国際的に活躍する商社の社員でもなければ、通訳や翻訳を職業としているものではありませんが、多少なり英語に馴染みがあり、いろんな国からの出身者の友人も比較的多く持っており、IT業界で常に英語で入ってくる最新の動向を日々ウォッチしているものとして考えを書いてみようと思います。
世界では英語を流暢に話せることがインテリジェンスの証であるという常識があります。私自身、主に英語で話しを聞くことが圧倒的に多いのでそこから聞こえてくる意見や考え方に多少偏りがあるかもしれないのは否定できませんが、それでも確信をもって言えるのは、英語母語話者ではないにもかかわらず英語を使いこなす彼らはみな非常に教育レベルが高く、ビジネスシーンでそれなりの地位を得ているか、海外へ積極的に留学をするなどして向学心も高い人たちが多いということです。そんな彼らが日本へ来て思うのは、どうして日本はこんなに進んだ国なのに英語を話す人がこんなに少ないのかということです。国際人として未熟であるということや、まるで日本人の向学心が萎えているかのように見られることに対して、以前は恥ずかしさや不甲斐なさを感じておりました。
しかし、最近はもうすこし違った考えをもってこの質問に答えるようにしています。
その答えの前に、まず、なぜ英語を習得しないといけないかという一般的な2つの場面について考えてみます。
1つは、英語が公用語とされる国(あるいは英語が十分通じる国)から科学技術をはじめとする進んだ技術や知識を学ぶ必要がある場合です。日本の語学力が歴史的に一番すぐれていたといわれているのが明治維新前後、文明開化のころだといわれていますが、それは日本が当時のイギリス、ドイツ、アメリカなどから「文明」を大量に学んで吸収する必要があったからだと考えられます。政治のありかたや科学技術を学ぶために先人たちはそういった当時の先進国へ飛んで、学んで、そして日本に持ち帰りました。さらに、先人たちは持ち帰った知識を日本語に翻訳する偉業も成し遂げました。「経済」「権利」「衛生」などの日本語は当時に新しく作られた日本製の漢語です。
つまり、外国語を習得するという動機は外国の知識や文化を学ぶという目的と密接な関係があるといえます。現代の日本にやってくるアメリカ人留学生にどうして日本に来たのかと聞くとはにかみながら「NARUTOが好きで、それで日本語を勉強したいと思いました。」という話は実は珍しくありません。これは日本の日本にしかない文化に価値を見出した結果、さらにそれを深く知るためにはその国の言葉を勉強せざるを得なかったという自然な帰結を物語っているといえます。
こう考えると日本人がなぜ英語ができないかという理由の1つが見えてきます。つまり、現在の日本にとって海外から学ばなければならないものがもはやそれほど多くはなくなってしまったということです。
戦後の荒廃から現在まで必死に働いてきた日本はアメリカに並ぶ経済大国になり、物質的には非常に満たされた国になりました。日本人の器用で几帳面な性格も手伝って、日本の製品の品質は世界に誇れるものですし、科学技術や医療、その他の分野で世界の一等国として十分誇れるものを多く持つようになりました。その結果どうなったかといえば、同じ先進国に対しても、昔ほどは多くを習いに出かける必要がなくなってしまったというわけです。
ですから、多少言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、この点において日本人の英語力が劣るのは単に日本人の知的レベルが低下しているからでも、日本人の学習に対する怠慢を示すものでもないといっていいでしょう。
次に2つ目の理由について考えてみます。それは今日本が持っている技術、文化や思想なんでもかまいませんが、日本が持っているものを海外に伝えることに対する意志の弱さです。
明治の先人たちが海外に学びに出て行ったように、逆に今、日本が世界で唯一誇れるものを持っているとすれば、それは他の国、発展途上国の人々にとって日本に学びに行きたいという動機になります。実際に、日本では政府も民間企業も東南アジアから多くの技術者を受け入れて教育に力を入れているところです。彼らは日本で学んだものを持ち帰ってそれぞれの国で技術や文化の伝道師として指導的立場で活躍することを期待されています。
彼ら東南アジアからの技術者は日本に来てまず語学の研修の機会を与えられることが通例となっています。3か月から6か月の語学研修を経てからいろんな企業へ派遣されていきます。日本語の習得は日本に学びに来るものとして負担せねばならない最低限のコストだといってもいいでしょう。
しかしながら、このような状況は、日本にしかない技術、日本にしかない文化、たとえば、特定の日本企業との関係のためだったり、アニメのようなものであったりした場合で、もし同様のものが他の国、もしかして英語で簡単にコミュニケーションのとれる国にあったとしたらどうでしょうか。テレビやエアコンなどの電化製品や自動車など日本のがすぐれた品質を誇るこれらの分野の製品は、最近になって、韓国や中国でも見劣りしないどころか、製品のデザインセンスや消費者ニーズを素早く取り込むスピードなどでより優れていると思われるケースがたくさん見られるようになりました。こうなってくるともはや「日本にしかない」ものなどなくなって、いわゆる「国際競争」の渦の中に巻き込まれていくことになります。日本語という大変な壁を乗り越えて日本に買い付けに行かなくても、はじめから英語で取引してくれる国へ行けばいいという発想になります。
われわれ日本人がこんなに物質的に満たされて幸せなのなら、あえて言葉の壁を乗り越えてまで売りに出て行かなくてもいいやという自己完結、自己充足的な考え方があるのかもしれません。そのため、少なくともこれまでの日本はあえて「売りに出る」という意識が弱かったといえるのではないでしょうか。
この背景には、自分から積極的に売りに出る姿勢が押し売りになったり余計なお世話になったりしないかということに対する恐怖心があるのかもしれません。太平洋戦争で日本が欧米の列強に負けずと領土を広げにかかった企てに対する失敗がトラウマにあるのかもしれません。西洋の植民地支配は科学技術の伝道のみならず、キリスト教という思想宗教の伝道にも成功しています。その点、日本は、多少なりとも中国大陸、台湾、朝鮮にインフラを築けたかもしれませんが、日本的な思想、宗教の伝道はことごとく失敗して現代にまで禍根を残してしましました。何が悪かったのかの分析は歴史の問題になりますが、こういった歴史的経緯もあって「こちらから無理に押しつけてもうまくいかない」「わざわざ取りに来てくれるならあげてもいいよ」という内向きで消極的な意識が日本人の心の深いところに刻まれてしまったのではないでしょうか。
この消極的な態度が果てに英語の習得に対する動機づけを薄れさせる遠因になっているのではないかとも思えるのです。
しかしながら、この21世紀のグローバル化の中でもはや日本は鎖国して自活しつつ現在の生活レベルを維持できる国ではなくなっています。世界経済にかかわったら最後、国際競争からも逃れられないことは自覚しなければなりません。買い手がやってくるのをただ待っているのではなく、売り手として積極的に出ていかなければいわゆる世界の「負け組」へと追いやられてしまうそんな時代です。
中国や韓国でも企業のリーダー的ポジションの人々はみな英語を上手に使いこなします。この事実は、英語が母国語でないにも関わらす、技術、製品、文化、さらには思想までも世界に対して輸出、発信できる基礎を持っているということを意味しています。
日本の国内市場が飽和状態にある今、製品やサービスなどを海外へ広げたいというのは企業家としては当然の欲求です。そんな時に最低限のコミュニケーション能力がないことは致命的な問題です。日本人はもっと英語を習得して国際人としての意識を高め、世界に積極的に発信していくべきです。英語によるコミュニケーション能力は、一握りの外交官や政治家、商社働く人々だけに与えられる特権ではありません。世界がより小さく感じられるこの時代にこそ日本発のよい製品、よいサービス、よい考え方を積極的に世界に発信していく力をより多くの人が持てることが非常に望まれます。
最後に、話題を集めている「社内英語公用語化」について考えてみます。
楽天が全社一律に公用語を英語にしたことには衝撃とともに非常に抵抗があるのも確かです。国際化を進める観点でその方向性はよいと思うのですが、結果としてこれが日本人を退け、排斥する理由として使われていくのではないかという危惧があります。
誤解してはいけないのは、語学力というのはあくまでコミュニケーションの「道具」であって、コミュニケーション能力という1技能をもって、人の総合的な価値を決定付けることはできません。海外から日本にやってくる留学生をはじめ、海外で募集する優秀な人たちはそろって英語による武装が完了している人たちです。企業が即戦力としてそういった人たちを取り入れたいという衝動はわからないことはありません。しかし、それでもって日本人を排除する理由にはなりません。優秀な日本人の研究者、デザイナ、社内のリーダーたちは英語が得意でないかもしれません。この人たちを退けてしまえばその会社は日本人しかもっていなかった大切なものも一緒に失うことになります。
だからと言ってかたくなに英語化を拒否する理由もありません。道具として英語を位置付ければこれは「これまでの古い基幹システムを廃止して全社一律にMicrosoftのWindows 7を導入しますよ」という程度のことです。新しいシステムについていかなければならないのは世の常です。時代の流れを考えればこれを拒否することは賢明ではありません。
一方で、社内の部門によっては英語を必要としない部署も相当あるはずで、10人が10人みな等しく英語能力を突然求めるいわれもないはずです。部署の特性、目標とするところによって柔軟に対応していけばいいのではないでしょうか。そういう意味では、強制力をもって一律公用語化する試みはうまくいかず、いずれ柔軟な運用に切り替えていかざるを得ないのではないかと思います。